音楽遍歴編〜邦楽 The Willard |
1998年12月12日(日)の日記より〜 Laughin' NoseというのはThe Willardと同時期に人気にあった80年中半インディーバンドなのだが、実はこのバンドには全くといって興味が沸かなかった。従ってレコードもライブも見に行かなかったのだ。強いて言えばWillardとの対バンでバウスシアターで見たときが最初で最後。自分にとって心を揺さぶられないバンドだったといえば、それまでの話なのだが・・・。 んが、しかし、Willardのライブの後(いつのライブが忘れたが、85年で新宿ロフトだったのは確か)でDr.のマルさんと、Vo.のチャーミーと話す機会があったりした。皮肉なものである(笑)。ファンからみたらとんでもないラッキーぶりだったのに。とはいっても取り巻きの中で談笑していたときに、混ぜてもらったといったほうが正しいですかね。実はExecuteからBAKIが脱退し、その当時の新しいVo.のイチくんと知り合いだったため、彼からマルさんをExecuteのドラマーに引き抜こうなどという企てがあったことを聴かされていたから、そのあたりの話をしてみたのだ。案の定、「何でそんなこと知ってるん?」って感じで笑われたけど・・・。帰り際、なんと鹿鳴館ライブのチケットをくれた。これは私の記憶違いでなければ、マダムとの対バンライブだったような・・・?「これやるから絶対見に来いよっ!」と念を押されたにも関わらず、私は同日にライブだったWillardを選んだ・・・(^^;)ごめんっ・・・マルさん!ってここで今更謝っても仕方がないけどさっ(笑)。しかしチャーミー殿は、噂に聞くドン・ファンだった。女の扱いが巧いというか、マメというか・・・。遠巻きに見てて感心しました。 それから「この後タツの家に遊びに行くけど来るか?」と誘われたのだが、時間がメチャ遅かった上に終電が〜(涙)の世界だったのでそれはパスした。いや本音を吐くと、「誰や?タツって・・・」だったのだ(^^;)。ああ、でもそれってGustankのタツくんだったんですね、当時高校生、いや高校を卒業したばかりだったかな?しかし遊びに行くって・・・こげな時間に押しかけていって大丈夫かいな??何かこの時にパンクスたちの行動って、無謀でなかなか面白い。アーティスト絡みでなければ、まだまだ思い出話はある。(ああ、一応断っておきますが、ワシの場合はグルーピー扱いされてたわけじゃなかったのは断言できるっす(^^;)悲しくもあるけれど(爆)) |
1998年12月6日(日)の日記より〜 Today's BGM:The Willard 〜 The Willard ブックレット型のCDケースなため、市販のCDケースの中に収納出来ないウザいCDなのだがっ!しかし音はいいっす。実に初期のWillardの音っぽい。“Angel trip & Lucifer kiss”でスタートするんだけど、「おっ!きたぞ〜Willardぉぉぉ!」って気分になる。“his song”という曲がマイベストソング。中国の天安門事件を覚えているだろうか?このアルバムには、あの事件をトリビュートした曲が収録されている。その歌詞で『観ているだけで、もはや罪の中にいる 止められないのはいつものことさ 大きな流れにのめりこまれてしまうだけ 悲劇は雨の日に襲い掛かるけど、記憶だけはもう消させはしないから』というくだりがある。曲そのものは全然暗くもないし、むしろWillardにしてはポップだと思う。Junの書く詩には、「夢」という言葉がよく使われる。また所々に入る英語の歌詞もなかなか的確なフレーズを使うので、曲全体を盛り上げてることにも随分後から気がついた。 Willard思い出話として。1985年7月6日&7日の新宿ロフト2daysに行った時のこと。この日の一日目はなんと昼の部まであったのだ。昼の部よっ!比較的硬派なパンクバンドが、昼の部っ!しかも真夏(^^;)。というのは600枚の限定チケットが即日売り切れになったから、急遽昼の部が行われたってわけです。んでもって、ワシは全部見たんだけどね(笑)。Jun先生はそれでも例の袖なし革ジャンの上に、ブルーのAラインのジャケットを羽織り、白塗りだった・・・(^^;;)。しかし途中、アトラクションとして巨大なデコレーションケーキを客席に向かって投げたらしい。・・・いや、自分もその場に居て、最前近くで暴れてたんだけど、Jun先生がケーキを投げた瞬間を見てなかったので、あとからジャケットに飛び散った生クリームを見て、「おおっ!なんつーことをっ!(涙)」ってことになったわけ。なんでもマトモに顔に受けた人が居て、それは大変だったらしい。しかもその生クリーム、暑さのためか腐ってて、クリームが味噌の臭いと化し、その悪臭だけは鮮明に覚えている(><)。あまりの臭さに夜の部を蹴って帰ろうかと思ったくらい(笑)。しかし必死で友人がとどめてくれたおかげで、その後思わぬハプニングが・・・。夜の部まで時間があったので、Willardのフォロワー達(殆ど男の子)とたむろしていたら、なんとリハーサルを見せてくれたのだ。ラッキーっ!っーてことで、Bondage Dream=iだったと思う・・・)の詰めをしているところを小一時間くらい見せてもらった。この時のギタリストはYOUさんだった。ケーキのことをメンションすると、「あれ?今朝買ってきたデコレーションケーキで、4000円したんだけど?」というJun先生の答え。全員で一斉に「うっそぉー!味噌投げたと違うか〜?」と、笑いながらも密かに苦情をぶつけていたような? この時はリハだったので、メンバーの近くに寄ってお話するなんてことは一切出来なかったけど、オフステージで彼等を間近で見たのは、思えばこれが初めてだったのだ。 余談で・・・この昼の部が始まる前に、アサイラムというバンドのガゼルくんと話す機会があった。その最初の会話ってのが、今思い出しても笑えるのだが・・・。 ガゼルくんが私に「あの・・・女の人ですよね?」というのに対し、「男性ですよね?」とお互いの性別を確かめ合ったという、物凄いマヌケな会話だった(笑)。当時の私は何処にいっても「本田くんに似てますねぇ」と言われ、ついでに男に間違われたので、致し方ないとしよう。このガゼルくんは髪はブロンドのメッシュ入りと派手なんだけど、小っちゃくて細〜いっ!いわゆる美少年タイプだったので、ちょっと見た目では女の子だった。ああ、でもライブでの暴れ方はやっぱり男の子だったけど(笑)。 |
1998年12月5日(土)の日記より Today's BGM:The Willard ~ The town in destiny 掲示板でThe Willardの直近ライブの書き込みを読んで、急に聴きたくなった。CDとして持って来てるのがこのシンコーミュージックから移籍後リリースし、土屋政巳プロデュースの完成度の高いアルバム『The town in destiny』(1988年8月)と、1987年7月3rdアルバムの『The Legend of Silver Guns』、新しいベーシストANAIが加入して1990年リリースされた『The Willard』の三枚だけ。貴重なソノシート(La Caduta Degli Dei1983年7月)や、限定EP版(Outlaw/Stinky Vice収録1984年8月)や配賦EP(1985年7月Congratulation/Hit or miss(Damnedのカバーを日本語歌詞で))は実家に置いてあるが、果たしてコンディションはどうなっているだろうか?聴き返して、ちらりとアルバムの写真も覗いてみる。そーいえば、彼等写真集(Lightning Scarlet)を出してたっけ。その撮影中に、例の白塗りJun先生がゴスっぽい格好をして、外人墓地の石の十字架の上に足を乗せポーズを決め込んだ。その祟りかどうか知らんが、撮影後の1986年6月のLIVEIN2daysに行ったら、二日間ともJun先生の声が潰れてまったくあのJun節が聴けなくて残念な想いをしたことがあった。当時、友人がDr.のKyoyaさんと付き合っていたというラッキーな境遇を利用し(^^;)Jun先生と一緒に写真を撮って貰ったことがある。ああ〜赤面ものなのだがっ!せっかくお話するチャンスだったというのに、緊張しまくり。ひょえ〜(笑)!んで、「声が悲惨で残念でした」というマヌケな言葉しか交わせなった記憶が。元々、小心者なんだよ〜オレ(^^;;)。Jun先生は大きかったです。ああ、背が高くて存在感があるっていう意味で、近くで見たらメチャカッコよかった。ほんと彼のコスのセンスは抜群で、いつも真似したかったんだもん。ゴスっぽいと表現はしたが、やっぱり彼の場合は「保安官」に近い。実はこの当時私も「保安官コス」に夢中だったのだ。きっかけは映画の『ガンマン牧師』を見てから。牧師独特の黒いコスでガン・ファイトシーンを見た暁には、もう「これっきゃないっ!」と自分まで頭をぶち抜かれたのでした。んで、それを現代風にしかもロック好き風にアレンジした理想形ってのが、Jun先生だったわけです。(何を力説してるんだか(笑)) 確かにその時の写真が実家のアルバムの中に残っている筈だ・・・。デジタル化してこよう・・・。人にはとても見せられないがっ!あとはその写真集とビデオテープ、その他のVinylを持ってくること。ううう・・・(^^;)。 |
1998年4月28日エッセイより バンドというのは「男の子向け」と「女の子向け」というのが存在する。 言い換えてみると、「男の子に指示されるタイプのバンド」と、「女の子にウケるバンド」といった色がしっかり出てくる。 ウィラードは紛れもなく「男の子バンド」だった。 時は1984年、インディーのパンクバンドがやたら話題に上っていた。 ライブなどで確実に力とファンを獲得したバンドが、自費で自分たちのレコードをリリースして売ることが可能になった。またそれがトレンドにもなった。 必然的に「インディー専門の店」が出来始め、今までブリット・パンクを聴いていた少年少女達が、邦楽パンクにのめり込み、ひとつのシーンを作り上げていった。 その中でも最終的にはメジャー・デビューを果たし、人気も高かったウィラード。結成は1983年6月だという。 彼等に出会ったのは一枚の自費レーベル・シングルだった。あの当時のパターンとして、最初にソノシート版を作って売る。そして次は塩ビ版という流れで、CDはまだまだ普及する前の話。ウィラードはこのレーベル作成に精力的で、メジャーデビューする前に発売したレコードは幻化し、一時期シングル版一枚で5万円のプレミアムをつけた(これは限定発売EP版のOutlaw1984年8月発売、予約と共に売り切れだったらしい。すべての曲はWillardの名曲中の名曲。音の感じも粗野で、それがかえってカッコイイのだっ!) 実はこの幻の塩ビ版、実家に帰ると保管してあったりする。だからといって今となっては価値があるかどうかも疑わしいところだけど・・・? 彼等の音楽性は、一番良かった頃のThe Damnedを彷彿させる。中には彷彿どころじゃないほど酷似していた曲もあったけれど、私はDamnedも大好きだったので、何の抵抗もなく受け入れる事が出来た。 しかし・・・ギグは、まさしく命懸けのだった。 なにせ男の子のファンが多い。しかもツンツン頭(或いはモヒカン)に尖ったビスをじゃらじゃらと皮ジャンに貼り付け、安全靴をはき(ちょっとお金のある子は、Doctor Martinのワーク・ブーツを履いていた。安全靴とは本当は言ってイケナイ!)、バリバリに決まったパンクにーちゃんが、ライブ中スタンディングの席で大暴れをする。ステージからダイビングはするわ、人にぶつかりながら踊るわ。ダイブをした奴に、誤って鉛入りの安全靴で顔を蹴られるわ・・・・。ちょっと危険を伴うライブで、覚悟してスタンディングで見なければならない。このハードコア・パンク用のビスというのが曲者で、一度リストバンドが私の目元に当たって、血を流した事がある・・・。(最近わかったことなのだが、これは1985年3月の吉祥寺バウスシアターで、Laguin' Noseとの共演時)大した怪我じゃなかたけど。 だから毎回ギグに行くたびに2〜3kg痩せた。まるで演奏しているミュージシャン並みだった。 その演奏している当人たちのステージ衣装もなかなか個性的で、特にボーカリストのJUN様の”西部劇の保安官”のような雰囲気に影響されて取り入れてましたわ。 しかし彼はいつもステージでは決まりまくってましたけど、随分な厚着でしたわね。袖なしの皮ジャンの上にロング丈のAラインジャケットを着、皮のパンツにRobot製っぽいブーツ、指なしの手袋もしていたような・・・。そしていつも白塗りの化粧にアリス・クーパーのような黒い目の縁取りメイク。真夏でもこれです。しかも新宿ロフトとか小さいライブハウスで、この格好して所狭しと踊り、歌いまくっていたから・・・。もしかしてこれは一種のダイエット?? でもライブが終った後のJun様の皮ジャンの臭いを想像するのがコワイかった(^^;)。 恐らく83年(**注1)、NHKのドキュメンタリー番組「インディーズの逆襲」でコアであった「ラフィン・ノーズ」と「有頂天」と共に紹介された時が、インディーズ時代の頂点だったような気がする。その後インディー・レーベルからファースト・アルバム「Good evening wonderful fiend」が発売され、その記念ライブとして真夏の日曜日、新宿アルタ前で他に「ガスタンク」「きゃ→」などを迎えてフリーコンサートを行った。この時自分も最初から見に行ったが、あらためてインディー・パンク人口の多さに、驚かされたものだった。一体こいつら普段はどこに隠れてのだろうかと。あれほどの大人数のモヒカン軍団を見たのは生まれて初めてだったので・・・・つい(^^;)。 セカンドアルバムを出す前に、彼等は遂にメジャーを契約をする。そして所属事務所が「シンコーミュージック」。このニュースを聴いた瞬間、「もうウィラードは終ったな・・・」と思った。ロック座(ダブルデッカーって名前だったかな・・・)のテレビコマーシャルに、インディー時代の大名曲の利アレンジ版「stinky vice」とともにJunの姿を見た時、悲しかった。この人達も本田泰章のような運命をたどるのかな・・・と。 出されたアルバムは買って聴いてたけど、もうインディー時代のインパクトがなくなり、どんどんDammed傾向が強くなっていった。もしもシンコーミュージックに行かなければ、もう少し違った展開になっていたかもしれないけど・・・・。 やはり私の勘が当たって、数年後彼等は事務所を辞めた。そしてオリジナルメンバーであるベーシストのクランも脱退した。 そして心機一転、オリジナルメンバー三人だけで新しいベースは加えず、別のレコード会社から4枚目のアルバム「The Town in destiny」が88年に発売された。これが予想を反して素晴らしかった。やっと自分たちを取り戻せたという印象で、Junの声がのびのびしていた。そしてなによりも楽しそうだった。 この時インタビューを読んだが、Junはしばらく自律神経失調症を患っていたらしい。色々事務所のトラブルに巻き込まれたらしい。このアルバムの中の「misfit」という曲は、そのタイトル通り自分に合わなかった環境で苦しんでいたことを表現していると言っていたっけ。歌詞の中で「何をしても終りはしない、繰り返すだけの日々 Get no vicious circle〜♪」のクダリがこのあたりの彼等の心境を現している。 このアルバムが出て、明大でコンサートを行った。ものすごく久しぶりに彼等を見た。 メジャーに行ってから野外(**注2)のコンサートを一度だけ見に行ったが、その時と比べるとずっと彼等らしいライブだった。そして、これが彼等を見た最後のライブ。5枚目のアルバムも89年に発売されて購入したが、それ以降は私も渡英してしまったので、わからない。 他のサイトでもこの80年代前半のインディー・パンクシーンの事を懐かしさを込めて話しているところもあった。皆、一様に「イカ天」の終りとともにひとつのムーブメントが終ったと言い切っているところが、とても印象深かった。 (**注1:83年と書いたがとんでもない間違えっ!(^^;;)85年の新宿ロフト2daysの無料配布EPの時に番組用の撮影隊が来てて、しっかり友達がダイビングをした模様が収録されていたのをよく覚えている。だから1985年の秋頃だったのではないかと・・・?) (**注2:これは1986年8月の都有3号地での屋外ライブ。場所は新宿で、現在の都庁が建造される前の空き地で、それまでここをよく利用したロックコンサートが行われた。 |